飯富先生を偲んで ■飯富先生に捧ぐ
飯富さん
幸枝さん
ユッコ
ユッケ
先生はいろいろな呼び方で呼ばれていた。それぞれの呼び方は、先生と、その方々との間の関係を示すものだった。私のつれあいは先生との出会いを通して知り合った十文字学園謡曲仕舞部出身者で、やはり先生を「ユッコ」と呼んでいた。この世でただひとり、麻夜さんだけが先生を「お母さん」と呼ぶ事ができた。
私にとっては何よりも「先生」であった。私は最後に病室をおたずねしたその時まで「飯富先生」とお呼びした。先生もまた能楽師としての威厳と風格を持って私に対応して下さった。
■先生との出会い
私はクラシック音楽が好きで、随分といろいろな曲もきき、また演奏や合唱にも参加してきたが、どちらかといえば古い曲にのめり込んでいった。バロックからルネサンス音楽へ、そして中世の音楽へと進み、その中世という時代に深く惹かれるようになった。中世に関連する書籍を読みあさり、中世の人々がいきづいていた時代に思いをはせた。その興味の対象はヨーロッパ中世から中近東へ、そして日本の中世へと拡がっていった。
日本の中世といえば、平安末期、武士勢力が台頭して以降のことである。それまでの貴族の権威が崩壊し、武家が実権をにぎった時代、まだ農民と武士との階級的境界線ははっきりとしていたわけではなかった、この時代、ひとにぎりの権力者だけでなく、庶民が歴史の表舞台に登場を始めてゆく。庶民の中から芸能など独自の文化が生まれ、それを演じる人々、観客として楽しむ人々の姿が文献などで伝えられ始めたのである。猿楽はちょうどこの頃に生まれた日本独特の芸能である。
「猿楽を知らなければ、日本の中世を理解することはできない」。そう思った。当時の猿楽を、田楽やその他の芸能も包含しながら最もよく現代に伝えているのは能・狂言である。そこで私は手近なところで主だった友人たちに、能・狂言に詳しい人を知らないかと尋ねまわった。するとある友人が、自分の知り合いにプロの能楽師がいるから紹介する、と言ってくれた。友人に聞いた住所をたずね、先生のお宅の門を叩いた。
お会いして驚いた。まだ芸大を出たばかりの女性の能楽師であった。若すぎる。まだ一度も弟子をとって教えたことはなく、したがって私は「一番弟子」ということになった。はたしてこの人で大丈夫なのか。まともに教えていただけるのだろうか。失礼ながら、正直、その時にはそう思った。
しかし私はすぐに、先生の並々ならぬ才能に驚かされることになった。
■舞姿に魅了され
最初、私は中世猿楽の研究という目的以外に興味はなく、能を「芸ごと」として学ぶ気もなかったので、仕舞いを学ぶつもりは毛頭なかった。ただ謡だけを習うつもりでいた。ゴマ節のついた、あの独特の謡本を読み、600年の時空の彼方に開けられた窓の向こう側をのぞき見ることができれば、それでいいと思っていた。しかし先生のほうが、仕舞いもぜひやりましょうと大いに乗り気になっておられ、結局そのことばに従って仕舞いもやるということになった。
日本語の「まなぶ」と「まねる」とは同じ語源である。伝統芸能のお稽古はすべて「まねる」ことから始まる。謡のお稽古も、先生の謡のとおりに口伝えでまねる。仕舞いもそうである。先生の手の動き、足の運びをそのまま、まねる。宝生流では仕舞いは「熊野(ゆや)」から始まる。先生はまず自分で舞い、お手本を示してくださった。その時、先生のその舞姿の美しさに、私は途方もなく魅了された。
先生は誰もが認める美人であった。女性として美しい。だが、私を魅了したのは、そうしたものだけではなかった。先生の舞いそのものに惹かれたのだった。能楽がもつ、極限まで削ぎ落とされた簡潔な表現としての舞いの真髄を、先生はこの若さで体得されていた。素人の私が見ても、それは見事なものだった。その時の舞姿の美しさにすっかり魅了された私はどうしてもそれを絵に残したいと思った。そして先生にお願いしてモデルになってもらった。
絵を描くからといっても、先生に何時間もじっと立っていてもらうわけにはいかない。また舞いは、その連続する動作の流れの中の一瞬の間に美があるので、止まってしまったらその魅力は消え失せる。そこで友人の横谷君にお願いしカメラを構えていてもらいながら、先生に何度も同じ舞いを舞っていただいた。
その時、舞っていただいたのは「羽衣」だった。
なぜ、その時そんなに美しいと思ったのか。その謎を解く鍵は、あるフランス人の言葉にあった。
■橋懸の向こうから
ポール・クローデル。演劇に造詣が深く、多くの著作を残しているが絶版が多い。私も増田正造氏の引用によってこの人のことを知った。
この人にはお姉さんがいた。カミーユ・クローデル。彼女は彫刻家ロダンのモデルであり、弟子であり、また恋人でもあった。彼女は映画にもなったことで有名になった。
その弟はお姉さんほど知られてはいないが、能楽への貢献によって能楽界では知る人も多い。おそらく能をフランスに初めて本格的に紹介したのは彼であった。彼は外交官となり、そこで出世した。そしてフランス大使となって大正末期から昭和初期の日本へ赴任し、そこで「能」と出会った。彼は能を観て衝撃を受けたのだろう。能についての深い洞察に基づくことばを残している。
演劇は、何事かが起こる。能は、何物かがやってくる。
西洋を起源とする演劇では、舞台の上で何か「事件」がおこる。そしてそこから展開するドラマを追ってゆくのが演劇の基本のすがたである。しかし能はそうではない。ドラマの内容を観客はあらかじめ知っている。観客がじっと目を凝らして見つめるのは、はしがかりの向こうからやってくる「何物か」である。はしがかりの向こうは「別の世界」。その「別の世界」から人ならぬ「なにか」がやってくる。それは鬼であったり、幽霊であったり、神であったりする。人であったとしても、それは千年も昔に亡くなった人の化身である。中世の人々は、これらの「異界からの訪問者」の出現に心を躍らせながら猿楽を観ていたのである。
能役者はこれを演じるために「ひと」である自分を捨てる。面(おもて)をつけた瞬間から、能楽師は人ではない「なにものか」に変身する。それは面をつけていない時でも同じである。面をつけない素面(ひためん)の時まったく顔に表情を表さないのは、面をつけたのと同じ状態だからである。こうして能楽師は「人ならぬ何物か」となって舞台に立つ。
■羽衣の天女の化身
能の舞いは、無駄な動きを一切捨て去って様式化された、舞いの「型」の連続によって構成される。そこに演劇によって解釈されるような「演技」の余地を必要としない。能楽師は「自分」を捨て去り、ただ一心にその曲中の主人公になりきって舞うのである。その心持ちは能舞台において本番を舞う時も、またお稽古舞台において稽古する時も同じである。
前田先生のご自宅の舞台をお借りして私に稽古をつけて下さっている時、先生がその「人ならぬ何物か」となって舞う姿を、わたしは何度も目撃した。羽衣の舞いを舞って見せてくださった時、そこに「飯富幸枝」という人物はいなかった。その時、先生はまぎれもなく「羽衣の天女の化身」だったのだ。
横谷君から写真を受け取ってからおよそ一週間、私は絵の制作に没頭した。百号という大きな絵を描くのは初めてだった。早朝から深夜まで描き続けた、その一週間という時間は例えようもなく充実した時間だった。私はあの時、「ひとりの女性」を描いたのではなく、羽衣の精の化身となった能楽師の姿を描いたのだった。
しかし・・・
ときどき思うことがある。あの時の感動を、その万分の一でも描くことができていただろうか。そう思うことがある。あの時、先生はあの絵よりももっと美しく輝いていた。
2月6日の夜、突然お電話をいただいた。私が以前ご紹介したある健康食品を試してみたいとの事で、翌日直ぐに購入に行き、郵送の手配をとった。しかし、例えその製品になんらかの良い結果が期待できたのだとしても、あまりにも遅すぎた。もっと早く相談してくれれば、もしかして。・・・
3月6日、風の姿、花のささやきを私に教えてくれた先生は、今年の桜をみる事なく逝ってしまわれた。51年の生涯は短すぎる。しかし、能楽師として立派な業績を残された先生は、きっと、この世界で為すべき使命を果たし、ふたたび羽衣をまとって天へと帰っていかれたのだ。
弟子としてお稽古をつけていただいた、あの三年間の日々の思い出は、生涯忘れられない、私の大切な宝である。
飯富友木枝(幸枝より改名) 宝生流能楽師 1958.1.5-2009.3.6
|